「真面目だね」と言われるのがコンプレックスだ。
だが私は昔からよくそう言われてきた。そんな私にとって、マジメからの脱却は人生のテーマといっても過言ではない。
小学生の私はいかにもガリ勉学級委員長タイプ。その頃は違和感を抱くことなく過ごしてきた。
でも中学生になると、浮いてしまうのではないかと不安になり始めた。マジメでおとなしいイメージを少しでも払拭するために、友だちと話すときは面白いことを言おうといつも必死だった。でも慣れていないので時々、おもしろくもなければただ誰かを傷つけるだけの言葉を発してしまい、あとで後悔することが多々あった。
高校に入ってからもマジメオーラは消せない。部活のメンバーからの第一印象は「最初は絶対仲良くなれないと思った」。でもどうやら私はマジメすぎて変なところがあるらしい。そんな一面が見つかったことで私はいじられキャラとなり、ようやくみんなと馴染むことができた。一歩間違えたら、友だちがいない高校生活を送っていた。
大学では色んな個性が受け入れられるとともに真の真面目で凄い人たちがごろごろいたので私ごときがマジメと言われることはなかった。でも就職すれば元通り。酒好きやジャニオタなどマジメオーラ以外の個性を押し出そうとしてるが、あまり変わっていない。
そんなマジメ(つまり面白みがない)という言葉にずっと複雑な思いを抱えてきた。
会社に入ると、悩みの種類は少し変わってきた。マジメオーラによって仕事への期待値が勝手に上がってしまうのだ。
大分のギャル大臣は「ガリ勉が100点取らなかったら残念がられるけど、ギャルが90点取ったら凄いと褒められがち」と言っていた。まさにそういうことだ。
なにより問題なのは、私がマジメなのはあくまでオーラだけで、中身はそれほどマジメではないということである。
もちろん私だって仕事をやらないわけではない。でもみんなの期待に応え超えるほどデキるわけではないのだ。いい加減なところはたくさんあるし、頭も切れない。私もギャルになればよかったのかもしれない。
そもそも褒めるときに「真面目」と言うときって、どこか思考停止しているような気がするのは私だけだろうか?
真面目の意味を調べると、こう書かれていた。
1 うそやいいかげんなところがなく、真剣であること。本気であること。また、そのさま。「―な顔」「―に話をする」
2 真心のあること。誠実であること。また、そのさま。「―な人柄」「―に暮らす」
個人的な解釈として真面目は「何事にも愚直に真剣に、規律を守って正確に取り組む姿勢」のニュアンスでよく使われるんじゃないかと思う。
辞書の意味にしても私の解釈にしても思うのは、これって人として最低限やるべきことなのでは?多くの人は達成していることなのではないか?ということ。
わざわざそれを褒めるということは、他に特出すべき点がないのでは、と感じてしまう。
なんなら、この世の中は時にずる賢さが必要だ。規律を守るというより、その中で上手く立ち回ること。愚直にやるというより、ある程度手を抜いてかける労力にメリハリをつけること。
そういうことができない不器用さを、「真面目だね」という言葉が揶揄しているように感じるときもある。そこまで考えてしまうのは流石にひねくれすぎだろうか?
でももし、相手が心から褒めているつもりで「真面目だね」と言ってくれたとしても、それ以外の言葉が似合うような人間になりたいという憧れは捨てられない。