日曜日のなのはな

北極を探しにいく・日曜日更新+気まぐれ

話題の『ゴールデンカムイ』読んでもた

古来の狩猟・採集民族を描いたような世界観が好きだ。もののけ姫でアシタカがヤックルに乗って駆け抜ける姿はいつ見ても憧れるし、家の本棚には『シュナの旅』まで揃ってるし、モンゴルのゲルにいつか泊まってみたいと思ってる。

そんな私が友人に薦められて『ゴールデンカムイ』を読んだところ、ハマってしまった。

ゴールデンカムイ』は、今めちゃくちゃ売れている漫画のひとつ。らしい。どうやらシリーズ累計発行部数は1,600万部を超えた。らしい。

週刊ヤングジャンプで連載されているので、これは青年漫画に分類されるのだろうか。今なら9/17(金)まで、アプリで全話無料で読める。

ynjn.jp

普段、そんなに漫画へ強い興味を持たない私はこの漫画がすごく売れていることすら知らなかった。でも『ゴールデンカムイ』を読もうと思ったのは、友人からの薦めと、無料開放に加え、アイヌ民族という最強キーワードがあったからだ。

ゴールデンカムイ』は簡単に言うと、アイヌ民族によって隠された莫大な金塊を探すバトル漫画だ。

舞台となるのは、明治末期の北海道。主人公は、日露戦争の戦場で「不死身」と言われた帰還兵・杉元。そしてアイヌ民族の女の子アシㇼパ。

二人は偶然出会い、同じく金塊を狙うライバルたちと戦いながら、金塊探しの旅に出る。

まず何が楽しいって、12-13歳ぐらいの小柄なアシㇼパが、華麗な弓裁きをもって、いとも簡単に巨大なヒグマを仕留めるのである。カッコよすぎて、私はアシㇼパちゃんに惚れてしまった。

なによりハートを奪われたのが、狩りや野宿をするうえでの豊富な知識。アシㇼパちゃんは、アイヌ民族で代々受け継がれている知恵を使って火を焚き、獲物を仕留め、調理する。しかもその知恵が、私たちも使えるくらい細かい粒度で説明されている。この漫画の一番好きなポイントだ。

白樺の皮は油が多くて長く燃えるから松明に使える

こんな感じの説明が、戦闘中にも入ってくる。これから先の人生、私が白樺の皮を燃やすことはおそらくないだろう。いや、できればあってほしくない。ディスカバリーチャンネルに出演したらあるかもしれない。

でもこういう知恵を知るのってなんか楽しい。

他にも、アイヌ民族の料理「チタタプ」(なめろうの肉バージョンみたいな料理)を作るシーンがあったり、身の回りの物や自然を「カムイ」(神様)として敬うアイヌの信仰が語られていたりする。読んでいたら、今まで全然知らなかったアイヌ民族の知識が自然と深まるのだ。

もちろん、主題は金塊探しバトル。金塊を狙うライバルとの戦闘シーンは血みどろだし、青年漫画なので(?)ネタも下ネタもいっぱい挟まってる。一方で、金塊の真相や登場人物の過去にも数えきれないくらい伏線が張られていて、それを読み解くのが面白い。私も二、三日で最新話まで読んでしまった。

ただ、『ゴールデンカムイ』は、手に汗握る面白さだけじゃなくて、普段の生活感やアイヌ民族を描写している良さがある。私はそこが好きだった。私みたいに狩猟・採集民族好きの人がいたら、読んでみてほしい。

ちなみに『ゴールデンカムイ』を最新話まで読み終わった夜、私は感化されすぎて、このめちゃくちゃ暑い時期にも関わらず、鍋を食べた。もちろんオソマ入り。(やめなさい)

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そのあと、Youtubeアイヌ民族に関する動画を見た。

youtu.be

私よ、影響されすぎや。

『鹿の王』が問いかける医療と病

『鹿の王』を読み終えたとき、今このタイミングで、自分がこの本を手に取ったことに不思議な驚きを感じていた。

なぜなら『鹿の王』は、”黒狼熱”という感染症をめぐる国と民族、そして人々の物語だったからだ。

あらすじを全く知らず、ただタイトルに惹かれて読んだ私。まるで今の世界を投影しているかのような展開に、驚愕した。

今こそ、読むべき1冊だったのかもしれない。

『鹿の王』上橋菜穂子(うえはし なほこ)| KADOKAWA

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あらすじ

『鹿の王』の舞台は、東乎瑠(ツオル)帝国の支配下にあるアカファ王国。この地で、その昔オタワル王国を滅ぼした"黒狼熱"とおもわしき病が現れはじめる。

主人公のひとりは、"黒狼熱"が蔓延した岩塩鉱で唯一生き残った、かつての〈独角〉の戦士、ヴァン。もうひとりは、オタワル王国の末裔で"黒狼熱"の治療法を探す、医術師のホッサルだ。

ヴァンとホッサルをはじめ、多数の登場人物が、それぞれの思惑を持ちながら”黒狼熱”の真相を追っていく。これが『鹿の王』のあらすじである。

はじめは”黒狼熱”の大流行を防ぐべく、ホッサルを筆頭に治療法を模索する。だが次第に、病の裏にひそむ政治的な動きがみえてくるのが面白い。様々な民族、立場におかれた人々の複雑な関係性、歴史、価値観が絡みあっていて、一読だけでは抱えきれないほど壮大な物語だった。

続きが気になってしょうがないような、スリルもある。でも『鹿の王』はそれにとどまらず、はっと立ち止まって考えさせられるような深さも散りばめられている。

現実世界に通じる多様性

この物語には文化も背景も違う人たちが多く登場する。その分、考え方も違う。

”黒狼熱”の重症患者に、ホッサルが新薬を打つべきか迷う場面がある。新薬は、過敏反応や身体への悪影響を及ぼす恐れがあった。アカファ人の患者は、「生き残る可能性にかけたい」と、危険を承知のうえで新薬を打つ。

一方で、東乎瑠(ツオル)人は、ホッサルが動物の血から作った薬を打とうとしない。命が危ないとしても、獣の血を体に入れることは、信仰する清心教に反するからだ。

東乎瑠人の呂那師は、ホッサルに言う。

「私共が救いたいと願っておりますのは、命ではございません」

「私共が救いたいと願っておりますのは、魂でござりまする」

儚く消える命の哀しさを救うために、医療を研究してきたホッサルにとっては、衝撃的な言葉だった。命が助かる可能性があるのに、その選択をしないことが理解できなかったのである。

現実の世界も同じだ。医療に対する意見は千差万別で、明確な正解はない。

医療は万能ではない

私が目から鱗だったのは、このシーンについて書いた夏川草介さんの解説だった。内科医でもある夏川さんは、こう書く。

「一方で私の本質的な哲理は、意外なほど呂那師に近い。ホッサルの黒狼熱に立ち向かう情熱に打たれつつも、彼のように病について「いずれ必ず隅々まで明らかになる日がくる」とは感じないし、リムエッルのように医学に対する万能感もない。医師が努力した分だけ患者が助かるのであれば、そんな気楽な世界もないという、ある種の暗い諦観が常に胸の奥底に沈滞している。」

これを読むまで私は、科学的な思考を持たない呂那師より、ホッサルの考え方に同意していた。でも、医者として医療の最前線に立つ夏川さんの言葉を読み、改めて考えさせられた。

別の場面では、アカファ王のこんな言葉がある。

「どこまで手を伸ばそうとも、届かないところがある。それらは、神々と悪霊の領域で、私たちはそのような、なにか途方もなく大いなるものに包まれているのだと、私は日々感じています」

ホッサルのように、”途方もなく大いなるもの”に立ち向かってきた偉人の努力が積み重なり、私たちが享受する医療はここまで来た。でも、生命はどこまでも未知のままだ。その果てしなさは、最前線に立ってこそ痛感するものなのだと思う。

また、医療を万能と捉えてしまった時、その傲慢さはきっと私たちに牙をむく。生命も病も常に、私たちが思いもよらない変化を遂げていくからだ。これからも”絶対”はなくて、私たちはそんな世界と共存しながら生きていくんだろう。

ヴァンが見た景色

ただ『鹿の王』は、だから諦めろ、と言っているわけではない。最後にヴァンが語るのは、偉人たちが必死な研究を続ける医療を含め、生を追う私たちを肯定する言葉だと思う。

「たしかに病は神に似た顔をしている。いつ罹るのかも、なぜ罹るのかもわからず、助からぬ者と助かる者の境目も定かではない。(中略)だからといって、あきらめ、悄然と受け入れてよいものではなかろう。なぜなら、その中で、もがくことこそが、多分、生きる、ということだからだ。」

”絶対”がない世界で、今もコロナの感染は広がり続けている。予防接種の是非が議論され、行動が問題提起され、なにが正解なのかわからない。それでも私たちは『鹿の王』に登場する人々のように、それぞれ自分で考え、選択していく必要がある。

自分、そして”自分たち”が生きていくために、何を選択するか。

『鹿の王』は、まさに今の私たちに問いかけているのかもしれない。

なお、『鹿の王』はどうやら、今年の9月10日に映画も公開されるようだ。やはり今、注目されている作品だったのですね。

映画『鹿の王 ユナと約束の旅』公式サイト

紙の本を愛する理由

職場で、私のキャラが"昭和キャラ"に定着してしまった。

きっかけは、先輩が運転する営業車に乗っていたとき。道案内をしていた私が「次は東です」と言ってしまい、車内には大きなハテナが浮かんだ(私はそれを言った記憶がないのだけど)。

今どき、方向を東西南北で表現する人などいないらしい。

そうしてついてしまった昭和キャラは不本意だった。でも正直、自分にいささか古風なところがあることは否めない。

最近それを痛感したのが、電子書籍だ。

5月に、DMMブックスで半額キャンペーンをしていたことをきっかけに初めて電子書籍を買ってみた。

電子書籍は、荷物にならないのがいい。電車の中で本を読みたくても、最近流行りのバッグは小さくて本が入らない。荷物になるから、と諦めていたのがなくなった。それに、買えば届くのを待たずともすぐ読める。

また、私は付箋魔なのだが、電子書籍の場合は気になった箇所にハイライトを引くことができる。それを一覧で確認することもできる。

色んな意味で、めちゃくちゃ効率的だ。

それなのに、私は電子書籍がどうもしっくりこなかった。

漫画は電子でもまったく問題ない。本だけ慣れることができないのだ。結局、最近はまた紙の本に戻ってしまい、私の机にうずたかく積まれている。

なぜ、しっくりこなかったのだろう。

ひとつは、見開きの文章量が少ないからかもしれない。私は読んでいるとき、よく前後をいったりきたりする。紙の本だと見開き2ページ分が見れるので、それがやりやすい。対して電子書籍は1ページ分だけだ。でもこれは端末やアプリを変えれば解決しそうだ。

電子書籍に慣れなかった一番の理由は、紙の本にある、あの重みを感じられないことだと思う。

本を手に取るたび、私は想像する。この紙の束にどれだけ広い世界が広がっているのだろう。

壮大な物語や、世界のあらゆる知識が、文字と紙だけで私のこの手の中にある不思議。そんなことにワクワクしながら、私は本を楽しんでいたことに改めて気づいた。

そして、長編を読んだ時の読了感は、頁数の多い本のずっしりとした重みをもってこそ感じられる。

自分が読んだ本が、ずらりと本棚に並んでいる様子もいい。これまで読んできた本を眺めていると、私の思考の一部はここにあるのではないかと思う。二・二六事件の小説の隣に、恋人を亡くした大学生のエピソードが並んでいる。時代も主人公も全く違うけれど、どれも私のどこかを形作っているのだろう。

中学生の頃、親に買ってもらった文庫本の背表紙は、よく見るとボロボロになっている。いつか友だちに貸したら破れてしまったものだ。新しく買い直すよ、と友だちは謝ってくれたけど、私は丁重に断り、今もその本を本棚に置いている。

新しいモノにいつまでもアンテナを高く張っていられる人間でありたい。でも自分のこだわりや想い入れのあるものは、無理に変えなくていいのかもしれない。

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「働き方の損益分岐点」

最近、私は大学時代の友人と"課題図書"をやっている。読む本を決め、定期的にリモート電話で読んだ感想をシェアしているのだ。といっても、私が友人からおすすめの本を教えてもらい、読むことがほとんどだけど。

この前の課題図書は、この本だった。

『人生格差はこれで決まる 働き方の損益分岐点』(木暮 太一):講談社+α文庫|講談社BOOK倶楽部

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「なぜ私たちの働き方はしんどいのか?」「どうすればしんどい働き方から抜け出せるか?」この本では、これらの問いを投げかけ、現代の資本主義経済のカラクリを紐解いていく。

考え方の根底にあるのはマルクスの『資本論』や、ロバート・キヨサキの『金持ち父さん 貧乏父さん』だ。でも丁寧な説明とシンプルな図解の力により、タイトルの印象に反してとても読みやすかった。

私たちが日々会社で働き、稼いでいる給料はどんな考え方に基づいて支払われているのか?本書でそれを知ったときは、現実を突きつけられる思いだった。

労働力の価値

この本ではまず、資本主義経済における商品の値段について説明している。マルクスによると、商品の値段は「価値」によって決まるという。ここでいう「価値」の定義は以下だ。

価値  •••それを作るのに、どれくらい手間がかかったかで測られる
使用価値•••それを使って、意味があるかどうか(有益かどうか、 役に立つかどうか)で測られる

需要と供給のバランスといった「使用価値」 で商品の値段が変わることもあるけど、基準となるのはあくまで「価値」。さらにマルクスは、 こう書いている。

商品の「価値」の大きさは、「社会一般的にかかる平均労力」 で決まる

この理論は、労働力でも適用される。つまり、労働力の価値(給料)は「 明日も同じ仕事をするために必要な経費の合計」。そしてその支払額の基準となるのは「社会一般的にかかる費用」なのだ。

自分がいかに成果をあげたとしても、給料としてもらえるのは必要経費分。年次が上がれば給料が増えるのは、年次が上がるほど、所帯を持ったりして社会一般的な必要経費が増えるからにすぎない。

この仕組みは、1企業のみならず資本主義経済全体に存在している。資本主義経済の中で会社員として働くかぎり、私たちが得られるお金は「 明日も同じ仕事をするために必要な経費の合計」を越えることはない。

どんな働き方を目指すべきか

そんな資本主義経済の中で、どうすれば「しんどい働き方」から抜け出せるのか。筆者は、自己内利益を高めることが重要だと主張する。

年収・昇進から得られる満足感-必要経費(肉体的・時間的労力や精神的苦痛)=自己内利益

自己内利益を高める働き方に関して、私が印象に残ったのはこの言葉だった。

労働力を「消費」するのではなく「投資」する

例えば、一日立っているだけの仕事は、その日の体力と時間を使うだけで、将来の役には立たない「消費」になる。

でも社長のカバン持ちとして一日働き、高レベルのビジネス現場を見て、自分のノウハウに繋げることができたら「投資」になる。

労働力を「投資」することで、知識や技術を積み上げれば、将来的に自分の労働力の価値を高められる。それは将来、日々の労力を増やさずとも収入を上げられる土台になるということだ。

「投資」となる働き方をすること。それは私の職場でもいわれている、業務効率化につながるかもしれないと感じた。

私たちが目指すべき働き方は、作業の時間を減らし、その分、考え行動する業務に時間を割くことなのだと思う。「考え行動する業務」という表現にはしっくりこないのだけど、他に思いつかなかった。

「投資」となるのは、考え行動する業務だ。作業をたくさんこなしていると仕事をやっている気になってしまいがちだけど、それは私に何も残さない。自分の仕事をもっと生産性・創造性の高いものにしていくことは、会社への貢献だけではなく自分へのプラスになる要素なのだと感じた。

また、今後働くにあたって、「自分の投資になるか」という観点で仕事を選ぶことの重要性を痛感した。

最後に

ここで書いたのはあくまで一部だ。『働き方の損益分岐点』で書かれていることは、どれも当たり前のことなのかもしれない。でも、なぜそれが重要なのか、説得力を持って書かれている一冊だった。私の今後のキャリアを考えるにあたって、ひとつの指標になるような本だった。興味があればぜひ読んでほしいと思う。

「奇書の世界史」で覆された常識の概念

先日DMMブックスで、初回購入100冊まで70%オフという驚愕のセールをやっていた。

まんまと躍らされ、漫画含めて79冊:計14,052円分を購入してしまった私だが、そのうちの1冊を読み終わった。

「奇書の世界史 歴史を動かす“ヤバい書物”の物語」 三崎 律日[ビジネス書] - KADOKAWA

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変な歴史とかオカルトなんかが好きな私の、嗜好丸出しな選出。実用書買うつもりだったのにおかしいな…

でも、とても読みやすくて面白かった。

この本では、全部で11冊の'奇書'と番外編の3冊が取り上げられている。これらの奇書は、ひとりの男性が生涯をかけて書いた「世界最長のファンタジー小説」から、物理学界を騒がせた「フラーレンによる52Kでの超伝導」という論文まで、時代もジャンルも様々。

'奇書'として取り上げられている理由も違う。実際にあった(と思われる)事実なのに、まるでドラマのような経緯にワクワクした。

どれも面白かったが、本書を象徴していると思ったのは、この奇書だった。

「軟膏を拭うスポンジ」「そのスポンジを絞り上げる」

これは17世紀のイギリスで起きた「武器軟膏論争」のなかで生まれた2本の論文のこと。

「武器軟膏」は17世紀頃に研究されていた治療法だ。刃物でケガをした場合、傷を負わせた刃物や武器の方に軟膏を塗ることで、傷口を治療できるという信じられない治療法である。

この治療法を批判したのが、異端審門官ウィリアム・フォスターの「軟膏を拭うスポンジ」だった。これに反論した論文が、医師ロバート・フラッドの「そのスポンジを絞り上げる」だ。

そもそも武器軟膏という考えがあったことに笑う。今の私たちからみたら信じられない。(強いていうなら、プラシーボ効果はあるのかもしれない)

でも当時の人たちは、これを本気で議論していた。そして議論はどちらかというと、科学的な観点よりも宗教的な事情が焦点にあった。フォスターが武器軟膏を批判した理由は、黒魔術を告発するためだったし、フラッドは医師のプライドを保つため、当時の医学に欠かせなかった占星術の知識をもって反論した。

一方で、どう考えても怪しい武器軟膏は、実験結果によって効果が立証されてもいた。ただ、実際は、実験で比較された一般の治療法がかなり不潔な方法だったらしい。そんな一般治療法よりも、傷口に何も塗らない武器軟膏の方が相対的に治りが早かったというからくり。

まとめると何から何までおかしな議論だった。科学ではなく、宗教が全ての根拠だった当時の議論。そして論理性に欠ける実験。でもおかしいと感じるのは、今の私達が科学を知り、論理的思考を持ってるからだ。

もしかしたらこれからの将来、今の常識を根底から覆すような発見があるかもしれない。あるいは、世の中でメジャーとされている思考法や主義が、違うものに取って代わられるかもしれない。

そのとき、武器軟膏を笑った私たちを、未来の人間は笑うかもしれないな、と思った。

 

こんな感じで奇書にまつわるエピソードが書かれてます。

個人的には番外編の「物の本質について」にすごく感銘を受けたのだけど、書ききれなかった…紀元前に、原子の存在を把握していた人がいたってすごくない?ロマンを感じる。