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敬語なんて、いらない?

敬語に関する、興味深い記事を見つけた。

妻夫木聡と岡田准一の会話に見る「敬語」の難しさ | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース

上下関係にもとづく敬意を表しているつもりでも、聞き手が上下関係よりも親疎関係を重視すれば、「です」は相手との距離感をもたらしてしまう。

この記事では、敬語が「敬意の表れ」よりも「距離感の表れ」になってきたのではないか、と書かれている。

世間の傾向はいったんワキに置くとして、「距離感の表れ」というフレーズには私も思い当たる節がある。

敬語がなければいいのに

これまでの人生で私は幾度も、「敬語がなければいいのに」と感じてきた。

一方で私、仕事では言葉遣いに厳しい方だと思う。他の人がまちがった言葉を使うと、気になってしまう。敬語も例外じゃない。

目下の人が上の人に「ご苦労様です」なんて言った日にはヒヤヒヤする。部署に新人くんがきたときは、間違えやすい敬語を勝手にまとめて送りつけたほどだ(メンドくさい先輩だ)。なのに、そこに書いた「了解ですは失礼説」が、実は違うとの指摘を最近見つけたりして、なにも信じられなくなってきた今日である。

私は清く正しく美しく、言葉を使いたい。そして周囲の人に不快感を与える言葉は、使いたくない。その想いがあるから、失礼のないよう敬語を正しく使うことに、労力を使う。

でも「敬語」という存在がなければ、上の人にタメ語を使っても失礼にならなかったはずなのだ。敬語がなければ、「敬語」「タメ語」という概念がそもそもないのだから。そう考えると、敬語って何のためにあるんだろう…と思ってしまう。

「敬語がなければいいのに」と思う場面が2つある。

相手の潜在意識が見える

1つは、敬語を使われなくてモヤッとする時。たとえば、年配のコンビニの店員さんにタメ語で話されると「いや、なんでやねん」と思ってしまう。

店員さんは、全員にタメ語で話してるわけじゃない。若いから、私にはタメ語なのかもしれない。でもそれ、おかしくない?

敬語が存在することで、相手が潜在意識のなかで自分をどう見ているか、わかってしまうときがある。別に知りたくないのに。知ったところでなにもプラスにならないのに。

最初から敬語がなければ、こうやってモヤることもないだろう。

人との壁を高くする

2つ目はまさに、人との距離を縮められない時。

目上の方や先輩と、肩の力を抜いて本音トークをしたいとき。お客さんともっと仲良くなりたいとき。「敬語」が私に邪魔をする。嗚呼、私がもっと柔らかく話せば、相手も話しやすいだろうに。

でも友達を急にニックネームで呼ぶことができない私にとって、「きちんとした敬語」から「少しくだけた敬語」への切替えは至難の業だ。

ちなみに、その先にある「敬語」から「タメ語」への切替えはさらにハードルを感じる。なんでだろう。自分の中で「いや、昨日まで敬語使ってたのに急に馴れ馴れしいな?」とツッコミを入れてしまうのだ。

記事に登場した、妻夫木聡に敬語を使う岡田准一も、実はこれが原因なんじゃ?と思ったりする。

だったら最初からみんなタメ語でいいやん。そうすれば、私みたいに切り替えが苦手な人だって悩みがひとつ減るはずだ。

もちろん、人との距離を縮められない原因は、敬語だけじゃない。話し方や、話す内容にもよる。誠実なコミュニケーションの積み重ねがあってこそ、距離は近づくものだ。でも敬語が、人との間の壁を一段高くしていることは間違いない。

敬語がなくなっても

ここまで偉そうに主張したけど、今日も私は敬語を使う。仮に明日、新人くんが私にタメ語で話しかけてきたら、内心イラッとしてしまうんだろう。

もし敬語がなくなったとしても、幼いときから刷り込まれてきた「敬語」の概念は、私たちの中から消えない気がする。私たちが持つ常識、概念が変わっていかないと、言葉は変わらないのだと思う。

でもこれまでの歴史で、言葉は変遷を遂げてきた。もしかしたらいつか、「敬語」がなくなるような変化だって訪れるかもしれない。

「了解です」という言葉の常識が変わったように。

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